昭和46年09月18日 朝の御理解



 御理解 第12節
 「神に会おうと思えば庭の口を外へ出て見よ、空が神下が神。」

 金光様の御信心、大体金光様の御信心というものは、どういう神様を拝むのですかと、ということを聞かれるんです。けれども、もう天地そのものを神様として拝むのですよと、まあ言いもします。聞けばあぁそうですかと、また分かるわけであります。けどその神様が本当に通って下さる神様、私どもの心に又私どもの心が、その天地に通う神様というところまで頂かなければ、只天地を拝んどりますというただけでは、おかげの実感というものがない。
 庭の口を外へ出て見よ、空が神下が神と、と言う事はそのまま天地と言う事でありましょう。又天地そのものの働きそのものでありましょう。天地の中に包含されておる、言うなら森羅万象が一切そのまま、天地乃親神様の姿として拝ませて頂くのが本当だと思います。毎朝ここの庭に出らせて頂いて、天地を拝まして貰います。拍手して神様がその拍手に応えて下さる様に私の心の中に有り難いものがわいて参ります。
 おしめりの音を聞かせて頂いとりますと、そのままが神様のささやきの様にこれは実感です。感じます。もう何ともいえん心は静まった上にも静まり、清まらざるをえない心の状態がいわゆる天地を拝まして頂くところから頂けて来る。それで私は、その天地がです、私どもの上にどの様な働きと、どの様な関わり合いを似て、働き合うかと言う事を実感する。御理解八節にね、「子供の中に屑の子供が居ればそれが可愛いのが親心じゃ、無信心者程神は可愛い、信心しておかげを受けてくれよ」と。
 そう信心しておかげを受けてくれ、屑の子ほど可愛いのが親心であるように、天地乃親神様は私どもの上にその様な思いをいつも通わしてござる。ですから空が神下が神というて、天地が神というでもその神様を拝ませて頂くと同時にそういう神様を心に感じなければ、拝むと言う事にならない。只形の上で、拍手して天地を拝むという形でなくて心が拝むと言う事にならないと、そういう神様の一つの思い切りというか、神様の御心が通うてきて、初めて天地を拝んでおると言う事になるのじゃないでしょうか。
 いやその天地との関わりあいである。これはその天地が天地の親神様がです、私共の上のことをその様に思うておって下さる神様として拝めた時にはじめて天地が生きてござる。実感ですね。私は毎朝天地を拝まして頂く時に心の中に思わして頂くことは天地が生きてござる、天地が生きてござる。その生きた心に私どもの心が合流しなければならないと思う。日に日に更と三代金光様が教えられたが、その更な心で生き生きとした心を似て、生きた天地に向かわなければ。
 それは如何に天地が生きてござっても、こちらの心が枯れておる。死んでおっては通うことは出来ない。私は思うのですけど天地の働きというものは丁度、電気の働きの様なものだと思う。電気体の様なものだと思う。ですから枯れた木や枯れた竹をもってそれに接しましても、いうならびりっともきませんよ。けれどもそれが生きたもの、みずみずしいもの、生のものがそれにふれれば、びりっとくるところではない。さわり様がわるいとそのまま命を断っ程しのことになって参ります。
 神様と私どもとは、そういう電気体のような働きをお取り次ぎの働きに依って、まあそこには精米機がある。そこには扇風機がある。ここには洗濯機がある。ここには製材所がある。電気の働きすべて一切がそうして展開してくる、動いて来る。そこに人間の知恵やら力ではどにもできない働きができて参ります、それが天地金乃神を拝まして頂く、金光大神のお取次ぎを頂いて、おかげを受けるというのは、そういう電気を利用しての働きが受けられるように、そういうおかげを受けることだと、私は思う。
 そこで、そういうおかげを自分の心の中に頂かせて頂くための修行がいる。自分の心をいよいよ生き生きとして来ることのための修行が要る。例えば枯れかかったお花など、これはもう水揚げしきらんと思うたら茎をたたきますね、それをまた焼いたり致しますね、そすと水を吸い上げる力というものが、生まれてくる、そうすると、葉が生き生きとしてくる花もまた、生き生きとしてくるように私どもの心を叩くというか、どうも心が理屈の上では天地が神様だとは分るけれども。
 神様としての実感が生にこちらに通うてこないなら、結局は修行不足だと悟らしてもろうて修行しなければいけません。いわゆる、本気での修行がそこに求められるわけです、そこから心がいやが上にでも、生き生きとしてくる、その生き生きとした心で、天地に接する、天地の働きそのものに接する、そこで私はどういう修行をさせて頂いたら良いか、天地が生きてござる。
 天地の働きが生きてござる、その生きた働きが人間氏子だけぢゃありますまい。生きとし生けるものの上に、そういう働きがなされる、そういう働きがある一人一人の上にある、その一人一人の上に現れて来る働きを尊重する。尊ぶ大事にすると言うような修行が肝心だと思います。如何に神様を尊ぶというても、如何に神様を大事にするというても、八足の上にお祭りをしておる神様、ここに治まってござるいわゆるお宮の中の神様だけが神様ではない。
 天地すべてが神様だと頂かして貰うならばその天地の働きそのものも、やはり神様の働きとして頂くべきである。まあ頂かなければならんのである。その働きが千差万別一人一人の人間氏子の上だけではないけれどもまあ、人間氏子の上に一人一人に様々な働きが起きてくる。その働きそのものを合掌して受ける。その働きそのものを尊ぶ、それを私は成り行きを大事にするというとります。
 様々な成り行きが一人一人の上にあります。その成り行きそのものを実意を以て大事にして行く、ということ、昨日の朝の御理解でしたかね。それは苦い思いをすることがある、苦しい、悲しい様々な思いをすることがある。それを食物に例えますなら、苦い食べ物もある、甘い食べ物も勿論、辛い酸い、だから苦いものは嫌だ、辛いものは嫌だと言う様な事を言わずに、その甘いものが、その辛いものが私の前に成り行きがそういう成り行きになってきたならば、それを頂かせて貰うところにです。
 心の健全というところが頂かして貰える。甘いもの又は辛いもの、場合には臭いものもある。胡椒の様にそれこそ辛いもの、にんにくの様に臭いもの、だからそれもやはり天地の御恩恵、天地の御恵みのものとして、それを御恩恵として受ける心、私共人間一人一人の上にあるその働きをそのまま合掌して受ける。そのまま元気な心で受ける。私はそういう修行をですね、本気でさせて頂くところから、生々とした心が生まれてくると思う。これはひとつ本気で実行して見ること。
 そんなことがあるものかといわずに、そんな事と言わずに、それを神様の御働きとしてそれを頂くという気になる。いやそれを修行として受けさせて頂くと言う事になる。そういう受け方が出来る事の為に、私はまた修行させて貰わねばならん。それは例えば表行である場合もある。断食でもしてみる、水行でもしてみる、やはり夏でも冷たい水を朝浴びると言う事はやはり勇気がいることである。お水をかかりますから断食をしますからこういうおかげを頂かせて下さいという様なけちな表行ではない。
 只神様を思いたい一心、本当に金光大神を生々と唱えたい一心が、断食であり水行である。いわゆる表行である。そういう例えば弾んだ心をもって、でなければ自然に起きてくる成り行きのその問題を受ける心もにぶってくる。そして今日一日の上に起きてくる様々な問題、又は難儀というものをです、受けきって行こうとするそういう姿勢の出来る、その後に実感するものは、今日もよい修行をさせて頂いてと言う事、心の底からお礼申せる様な心、そういう心をもって天地を拝まなければ天地は通うてくれない。
 天地の働きが通うて来ない。 それを私は繰り返して行く事だと思う。そこから成る程神様がね、私ども氏子一人一人の上に思いをかけて下さる、その思いが実感として伝わって、実感としてわからせて頂く事が出来る。教祖様の御詠の中に、「たびし命あるありて今日もめざめたり、めざめしことの有り難きかな、」とあります。たびしというのは賜りということであります。
 賜った命あるありて今日もめざめたり、私は本当に天地の親神様、天地の御恩恵というものです、一番大きく頂かなければならないのは、このことだと思う。今日もお生かしのおかげを頂いておる。目がさめた、と言う事、目覚めし事の有り難きかな。今日も生きておった天地乃親神様の御恩恵に依るものとして、目覚めし事の有り難いことを感じさせて貰う信心、お互いどんな事になっておるであろうが、目覚めた事が本当に有り難いとお礼の申し上げれるところまで。
 お互いの信心が高められて参りましたら、もう大丈夫もう天地は通いどうし、天地の働きは、神様の働きはもう頂き通うしに頂く事が出来る。神様が私と共に在って下さる。神われと共に在るのですけれども、それを心の中に実感として有り難く頂きとめなかったら値打ちはない。如何に天地が生きてござってもこちらの心が枯れておったんではそこに有り難いというものは何にも生まれて来ない。その有り難い心がおかげを生む。
 神に会おうと思えば、まず外え出てみるというように、神に会おうと思えば本当に神様を実感しようと思えば、まず心が生きておる、心を生かす働きをまず頂かなければ、神様に会うことは出来ない、神様をいよいよ実感して、天地が拝めれるようになる。人間氏子一人一人の上に表れてくる問題を御恩恵として受ける眼が覚めたことを今日もお生かしのおかげを頂いておった、天地の御恩恵の中にあるんだと実感する。
 そういう私は生活を信心生活だと思う、ところがなかなかそのそういう本気で神様を、生きた神様を頂こうとする姿勢がですね、なかなかおかげを頂きたいという思いは嫌が上にもあるけれども、本当に神様を頂こうという心がお互い少ない。無いでは無いけれども、いわゆる真の信心というて真というけれども、それも例えていうと、おかげを頂きたいばっかりの真の信心では、真の信心にはならん。
 そこで私どもの根底からの思いというものが、私どもが生きていくためにね、生活のために信心があるのではなくて、信心のために生活の全てがあると分らせて頂く、私どもが生きていくということが信心のために生活のすべてがある。信心のために生活の全てがある、信心のために甘いこともあれば、辛いこともあれば、苦いこともあれば、臭いこともある。だから信心のためにそれを頂くことになる、それが生活のためにお互いが信心があるような感じがする。
 なるほどそれがいけないのぢゃない、皆がやはり入り口というか入信の動機というものはみんなそういうものなのですけれども、そこから分らせて頂くものが、いわゆる信心である、いわゆる真の信心である。真の信心とは神様が下さる、神様の働きそのものを有難く頂いていく稽古が真の信心だと思う、このごろからここで筑水連合の信徒の方達が、一晩泊まりで信心実習をやりました、御本部に入殿の形式を取ってのことでした。
 私はそれが始まる前に、皆さんここでお取次ぎさせて頂いたら甘木の御信者で恐らく甘木の親先生の御筆であろうと思いますか、御神米入れのふちのところに一心の真と書いてあった、それで私は一心の真とはほんとは、三代金光さま御在世の御晩年のころのある元旦にお書き下げをもろうたというのが、一心の真であった。金光さまの信心すれば、この一心とか真と言う事を乱用すると思われる位この一心とか真とかという言葉を使います。けれども私はこの一心の真というものがです。
 素晴らしい言葉ですけれども、一心の真とはどういうものだろうか、これは捧げるものだということ、一心の真とは捧げるものだと、そこでその日の話題がその私が御祈念後に一口皆さんにお話ししたものですから一心の真とは、また一心の真を捧げるとはどういうことかということが話題になった。一心の真だけではいけん、一心の真を捧げた時にはじめておかげになるのである、お互いが一心の真を捧げての信心になっておるかどうか。まあいろいろな表現でいろいろみなさんが頂いておられました。
 そんならその一心の真を捧げておりますという人もまたあった、前にそんならそれにどのようなおかえしがあつておるか、五十年信心しとります、一心の真を捧げ続けて来た、けれども本当のおかげの世界に入ってないとすると、まだあなたの一心というのは本当なものではなかったんだ、真とはまだ本当のものではなかったんだ、捧げたと言うけれども捧げて事にはなっていないんだばらばらである。
 一心の真が捧げられると言う此の一貫したもの、そこには必ず一心の真を捧げるところから、おかげが受けられると言うて一心の真についていろいろと話させて貰った、私の方の三番目の息子が肉腫癌といわれておった。肉腫と言う事、もう医大の権威のある先生方が御覧になって九十九パーセントはもう難しいと言う事であつた。あと一つ残されておったのはもう奇跡をまつより他にないと言う事であつた、まあそれは大変なことでした皆さんが毎日矢張り百四、五十人からのお届けがありました。
 特別の御祈念を皆さんがして下さいました。そういう沢山な一心の真を捧げての御願いをなさっておる中に、ある婦人がこう言う事を申しておりました、幹三郎と申します、幹三郎ちゃんのいわば命乞いというか、病気全快を祈らせてもらう、そのために一心の真をいわば捧げておられた訳です。お家で茶碗を洗わして頂くでも、お百姓のお手伝いをやらして頂くでも、それは場合には面倒くさいなあと思ったり、またはきついなあ苦しいなあと思うようなこともあるけれども。
 このことをひとたび思つたり祈らせて頂くようになりましたら、その茶碗を洗はして頂いておるのも、幹三郎さんの病気全快につながるのだと思ったら、その茶碗を洗っておることが有難くて有難くてたまらなかったとお百姓のお手伝いにやらして頂いて、一生懸命働かして頂いておるこのことも幹三郎ちやんの、病気全快につながると、思ったらそれが有難うして涙がこぼれるとこういうのである。
 私はそのことを申しました、一心の真を捧げた時にはそういうものがおかげにすぐつながらなければ、一心の真ではない、どんなに一心だ真だ、捧げておりますというても、一心の真を捧げということが、神様の感動であるお喜びあるならばですその喜びがすぐかえってこなければならない。これを修行とも思はない日常生活の中に茶碗を洗うことも御飯を炊くことも煩わしい問題もあるけれど、その問題をさして頂くことが、幹三郎さんの病気全快につながると思ったらそれが有難いというのである。
 お百姓さんのお仕事をさせて頂きながらもです、これが幹三郎さんの全快のそれにつながるとおもったら、もうそれこそ実意を以て一生懸命、普通一時間働くところは一時間半働かせて貰うてまだ足りないような思いがする、そして自分の心の中に通うてくるものは、有難いという一念だけであったという、お届けをなさったという方があったその当時、だから五十年間も。
 一心の真を捧げておるのに喜びも感じなければ。おかげもつながっていないとするなら、その一心たるもの真たるものはまだまだ本当なものじゃないと悟らしてもらわねばならんですねと話したことでした。私共が様々に一心をまたは、真を捧げての信心の稽古をさせて頂く、そこから生き生きとした喜びが生まれてくる、その生き生きとした喜びを以て外に出てみるのである。
 下を拝ませて頂くのでなければ、そういう生き生きした心で。神様に向かうのでなからなければ神様が生き生きと通うて下さるはずがない、枯れた木や枯れた竹で如何に大きなここに電気体がありましても、それに触れてもびりっともこんようなものである。まず自分自身の心を生き生きすることのために修行が望まれる、一心の真を捧げての信心が求められるわけであります。
      どうぞ。